敬語の種類にはいくつかある。
丁寧語、尊敬語そして謙譲語。
丁寧語は言葉自体を美しく表現する、「お」や「ご」をつけて「ます」で終わる。
尊敬語は話す相手を敬って使う、「おっしゃる」「いらっしゃる」「ご覧になる」「お客様」「お連れの方」などの表現。
そして謙譲語とは、自分または自分に関係のある人や持ち物・状態・動作をへりくだって使う言葉。
「ご案内する」「お待ちいただく」「書かせていただく」「拝見いたします」「参ります」などの表現。
この謙譲語、学生ではほとんど使うことがないので社会に出てから学ぶことが多い。
だからなのだろう、若いビジネスマンでこれを上手に使いこなす人は少ない。
ましてや学生からそのまま起業した人などはこの言葉の使い方を知らない。
そういう方々を見るにつけて「とっても残念」な気持ちになる。
ベンチャー企業が蔑視されるのにはそんなところもあるのかもしれない。
ところが、社会人経験関係なく最近「謙譲」の概念がどうも怪しい。
「自分がへりくだり相手を立てる」という概念。
相手の行動や発言に敬意を払うために「自分の立ち位置を下げる」という概念が理解できない人が増えている気がする。
「他人のためになぜ自分の立ち位置を下げる必要があるのか?」
それどころか「私が大将」とばかりに常に上から目線でものを言う人が増えている気がする。
今回の熊本震災でのSNSにおいての発言。
「どこから目線で語ってる?」と腹立たしい発言が見られる。
謙譲の反対「尊大」とも言える発言。
「いいじゃないか、発言は自由だ!」
確かに日本では言論の自由は保障されている。
しかし、その「尊大」な発言によって他人を傷つけて良いという道理はない。
尊大な発言をする人は一見「正論」を履いているように見える。
「正論」を言っているのだから文句はないだろうと?
人間には感情がある。
正論であろうが自らの言葉が相手を傷つけることは「正義」ではなかろう。
尊大に語る人たちは、言葉で相手を傷つけて「自らの立場を上げる」ことを良しとしている。
いわば「尊大語」の使い手?
相手が傷つく姿を見てどうしたい?ほくそ笑んでいる?満足している?
全くもって下衆な趣向である。
「情けは人のためならず」という言葉がある。
人に情けをかけるのは、その人のためになるばかりでなく、やがてはめぐりめぐって自分に返ってくるという意である。
あまりにも尊大で他者を傷つける言葉ばかり吐いているといずれ自分に返ってくるかもしれない。
言霊とは本当に恐ろしいものである。
相手を敬う心。大切にしたいものである。
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