昨日の日曜日、西新井大師に厄払いも兼ねてお参りをしてきました。
本年、私の年代(昭和40年生まれ)は後厄にあたるので、本堂で護摩炊きをしていただいたのですが、本堂には溢れんばかりの人でした。
護摩炊きではお経の後に、お坊さんが説教をされるのですが、昨日の説教は私自身とても身にしみるものであったので私なりの解釈を含めてご紹介したいと思います。
お坊さんの話は「おかげさまという気持ちの大切さ」と「一日の大切さ」という話をされていたように思います。
「おかげさま」の話もとても為になるものでしたが、何しろ参拝客が多いので細かい部分が聞こえませんでした。
「一日の大切さ」についてのお話はよく聞けましたし、自分の考えている事の整理ができて印象に残ったのです。
それは、このようなお話でした。
「今生まれた赤ん坊も私も80歳を過ぎた方も、今日一日は平等にあり、明日になれば1日分を経た人生を生きることになる。」
要するにどのように今日一日を過ごしても明日はやって来て、そのときには1日分の歳を重ねている、ということなんですよね。
今日という日をどのように過ごすのもその人次第。でもそれは確実に明日の自分に返ってくる。私はそのように感じます。
今日1日、自分を成長するために過ごせば、明日は1日分成長した自分がいるわけですよね。
逆に、何も考えず、行動せず、成長をあきらめてしまえば、年齢は確実に1日老いるのに、成長していない自分が明日存在するのです。
当たり前の事なんですが、何かハッとする気づきがあったように思います。
赤ん坊や子供は日々成長します。体も大きくなって行くし、親の言葉を聞いて言葉を学び、行動を学ぶ。学校に行けば新しい事柄を学ぶ。自分では意識していなくても赤ん坊や子供はしっかりと毎日成長しているのです。
大人になって、社会に出ると体の成長は止まり、親から学ぶことも減り、学校に通う必要もない。そこで成長する事をやめてしまう事はとてももったいない事ですよね。大人になると自ら学ぶ事、成長する機会を作っていかないと誰も与えてくれないこともわかってきます。
私自身、1日ずつ年齢を重ねて幾度に成長していきたいと思いますし、当社の事業もかくありたいと思いました。
日々成長、学ぶ事は人生においては終わりまで続けて行く事が大切なんだろうな、と改めて感じ入ったお坊さんの説教でした。
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