大学生の頃の思い出と言えば、バイトと音楽だった。
親の身になってみると「ちゃんとやれ!」と叱られるような奴だ。
大学入学時、自分は何ともやるせない気持ちを抱えていた。
それは高校時代の親友が大学に進まず自分のやりたい事を見つけて社会人になってしまった事と関係がある。
「あいつは社会でいっぱしにやろうとしているのに、自分はなんなんだ!」
そんな気持ちがいわゆる「チャラ系」学生生活を送る事に抵抗感を感じていた。
とは言え、正統派真面目系大学生というキャラでもなく。
「新しい自分」を探そうと運動系のサークルに仮入部などもしてみたが、今更スポーツに熱中するという気持ちにもなれずに速効でやめる。
そんな時に高校の先輩Kさんに「なんで軽音に来ないんだ!」と声をかけられる。
軽音楽部は大学が認めた文化会に所属しており、いわゆる正統派。
入部にはオーディションがある。
高校時代の音楽部同期は皆このオーディションを受けていた。
自分にはそんなことをしてまで軽音楽部に入部する気もなく、オーディションを受けなかった。
「いいから部室に来い」
K先輩から半強制的に軽音の部室に連れていかれた。
山小屋裏。
軽音の部室は体育会、文化会の部室がある「山小屋」の裏にあるのでそう言われていた。
山小屋裏の前には公園にあるような青いプラスティックの椅子とテーブルが無造作に置かれていた。
「おうK、連れてきたか」
高校音楽部時代の2つ上の先輩が手招きをする。
「おい、みのる、お前何やってたんだ!」
なぜか怒られる。
気がつけば周囲には高校時代の先輩や見た事の無い上級生らしき人がたむろっている。
「はぁいや別に・・・」
「いいからお前は今日からクラッカージュニアな」
「・・・」
ーこの人は一体何を言っているのだろうー
当時の軽音は3つのレギュラーバンドとそれに付属するジュニアバンドの6バンドだけで構成されていた。
つまり、新入部員は基本的にジュニアに配属され上級生になるとレギュラーになるという仕組みだ。
各バンドは演奏するジャンルも決まっており、ジャズファンク系のロイヤル、アメリカンロックのナッシュ、フュージョン系のクラッカーだった。新たなバンドの結成は認められていない。
どうやら自分はそのクラッカーのジュニアに強制的に配属されたらしい。
「いや、自分はフュージョンやってないですよ!」
K先輩が「まぁいいから」と目で合図しながら「わかってる、これから勉強しろよ!」と自分の言葉を遮る。
「これからよろしくな、みのる!」
初対面の先輩らしき人からも肩を叩かれ挨拶される。
どうやら、オーディションの結果同バンドのドラマーが見つからなかったので、こちらにお鉢がまわってきたようだ。
ーまぁいいかー
大学に馴染もうともしていなかった自分にとってなんとなく居場所が出来たような気がして少し安堵した。
翌日から軽音生活はスタートした。
部室前の椅子とテーブルは軽音の“たまり場”だったようで、授業の合間や昼飯の時は部員が占拠していた。
第一学食がすぐ近くなので学食で買っ食事をたまり場まで持ってきて食べていた。
金のない部員ばかりだったので当時200円のカレーばかり食べていた。
たまに380円の「カツ丼」を食べると「お前どうしたバイト代入ったか?」と集られる、というとっても学生らしさを感じられる場所であった。
4限の授業が終わる15時30頃になるとその日に練習するバンドのメンバーが集まって来る。
ジュニアメンバーはレギュラーの練習日にも必ず集合しなければならず、機材をリアカーに詰め込み本館(門から見えるツタの絡まる建物)2階の教室に運び込む。
レギュラーの練習中は黙々と先輩のプレイを観察する。
場合によっては音響機材の調整などもする。
練習終わりも当然リアカーで機材運びである。
この機材のリアカー運び。
夕方の大学、いくつものテニスサークルの連中が男女でたわむれている中を運ぶのである。
「はいはい、ごめんなさいよ!」
ボロボロのジーパンとくたびれたTシャツで通り抜ける。
「ちっ、チャラつきやがって!」
ただのやっかみである。
1年半の軽音生活、いろいろな事情で卒業までいる事は出来なかったが楽しい思い出である。
なぜこんな事を書いているかというと、FBで大学軽音グループに加えていただいたからである。
こんな自分をメンバーにしていただいた諸先輩に感謝するばかりである。
そして、もう一つ。
実は「山小屋裏」の部室に書いてあった言葉が忘れられないからである。
雑然と機材が置かれていた部室の壁に落書きのように書かれていた言葉。
「ひんしゅくは金を出してでも買え」
(最近某社の社長がこの言葉を「自分の造語だ」と言っているが、部室で見たのが今から30年前なので書かれたのは恐らくそれよりも以前のはず、はて?)
これを最初に見た時には何を言いたいのか理解できなかった。
もしかすると書いた本人もさほどの意味を持って書いていなかったのかもしれない。
音楽をやる上で意見の対立や個性がぶつかり合うことは良くあることなので、その事を言ったのかもしれない。
大学を卒業していろいろな経験をしてある程度の年齢になった時にこの言葉の意味がわかってきたような気がする。
組織の中で生きて行くと周囲からの「ひんしゅく」を恐れるようになる。
無難な生き方に終始してしまう。
局面を変える必要がある時には「ひんしゅく」を恐れてはならない。
むしろ、金を出してでも買う価値のあることなのだと思う。
卒業来いろいろな事を忘れているが、この言葉だけは忘れられずにいる。
懐かしき「山小屋裏」