今朝起きたら、後藤さん殺害のニュースが報道されていた。
一縷の望みが断ち切られた哀しい話だ。
ここ最近のニュースは「イスラム国」と称するテロ集団の蛮行が報道の中心だ。
このテロ組織については9月にネットラジオのゲストで話を聞いたシリアのジャーナリスト、ナジーブ・エルカシュ氏が解説してくれた時から気になっている。
「イスラム国と称する彼らはイスラム教の本意ではない、宗教を利用したテロ組織だ」
彼の話は若干チャラさがあったが、この話の時だけ彼は真剣な眼差しで答えていた。
「イスラム国」(isil)の後藤さん湯川さん殺害の理由はこうだ。
「日本は”十字軍”に加担した。だから敵対勢力とみなす」
我々日本人にとっては”?”な話。
「十字軍」
中学生の頃だろうか、歴史の教科書で多少学ぶ程度のこと。
「キリスト教の宗主国がイスラム教の領地を奪還した」戦いのこと。
しかし、この表現には問題がある。
キリスト教にとっては「エルサレム」という聖地を奪還する、であるが、イスラム教にとっては「侵略される」である。
wikiで早速調べてみる。
十字軍とは1096年に始まったエルサレム「奪還」のために当時のキリスト教の宗主国が”異教徒”討伐のために派遣した遠征隊のこと。
戦いは200年の時を経て一時的にはキリスト教徒がエルサレムを統治した時期もあったが、結果的にはイスラム教の支配のものとなり、イスラム教徒がキリスト教徒を”追い出した”戦いである。
この約1000年前の戦いを持ち出すのがISILの考え方。
今の日本に於ける「尖閣」や「竹島」問題とは比較にならない時間軸。
思えば、中東と呼ばれる地区(この表現も当地の人々は嫌う、どこから見た中東なのか?という問題)と欧米との確執はこの十字軍から始まり長きに渡り続いていく。
「エルサレム」は十字軍の失敗によりイスラム教徒のものとなるが、第二次大戦後のイスラエル建国により大きく変化する。
聖地エルサレムはキリスト教とはちがう「ユダヤの民」との戦いによって再び奪い合うことになる。
それを仕掛けたのは欧米(イギリスとアメリカ)「キリスト教徒」である。
ここで気づいた。
「ISILはイスラム教の極右派だとすれば、なぜ長年の敵イスラエルを攻撃しないのか?」の答え。
1000年前の十字軍の侵攻においては虐殺されたのは「イスラム教徒」だけではなく「ユダヤ教徒」も含まれていたという事実。
イスラム教徒とユダヤ教徒は共にキリスト教徒である欧米に虐殺された民である。
また、1948年から始まる「中東戦争」はイスラエルとイスラム教宗主国との戦いと言われている。
しかし「中東戦争」自体、宗教戦争としてイスラムとイスラエルに仕掛けた戦争であると考えるとどうだろう。
中東戦争の結果、最後に得をしたのは誰だろうか?
欧米のメジャーと言われる資本家である。
もし、このことをISILが理解していたとすれば・・・。
当然イスラエルを攻撃する理由が乏しくなる。
なぜ、世界中の若者が彼らの理念に共感して戦士として当地に馳せ参じるのか?
搾取する側を”悪”としされる側を”善”として「我々の権利を取り戻す戦い=ジハード」とすれば。
勧善懲悪。
悪を懲らしめるわかりやすいドラマだ。
一方、イスラムの人々は日本についてどう感じているだろうか?
ナジーブの話では「親近感」や「尊敬」の気持ちが強いらしい。
なぜか?
大東亜戦争で欧米を相手に「戦い」を挑んだ。
欧米の侵略を「特攻」によって防いだという実績。
イスラムの人々のジハードを極東の民が行ったという親近感。
そして「特攻」という自爆によって戦ったという尊敬の念。
あくまでも推測ではあるがこの辺りが彼らとの共感を得られるところなのだろう。
そんな同じ思いを持つ「日本」が「十字軍」である欧米と手を組んだことに対する「仕返し」であるとISILは言いたいらしい。
まったく愚かなロジックである。
本来の「イスラム教」の教えは「寛容」である。
異教徒を抹殺したりジハードと称して自爆テロを行うような教徒ではない。
ナジーブ氏はそんな話もしていた。
島国である我々日本人には理解できない長い時間軸での民族間や宗教間の因縁があるのであろう。
しかし、もうそれらのことが他人事ではなくなった。
グローバル化している世界の中で遠い国の出来事と思っていてもその影響は確実に自分たちの周囲にも及ぶ。
日本と日本人はその覚悟を持たなければならないと言われている。
それは「安倍さんの発言が悪い!」などという稚拙な話ではないことは言うまでもない。
そんな論調を持ち出すマスコミや政治家がいたら、それこそがテロ組織の「思う壷」だと教えてやるべきだ。