確かにふさわしくはないと思う。
やめても仕方ないかもしれない。
やってることがセコイし、言ってることも「なんだこいつ」である。
そんな人を知事に選んだ都民に責任があると言われても仕方ない。
舛添さんの問題である。
知事になる前はそんな人じゃなかったという声もある。
大きな権力を握り、自由な裁量権を手にすると人間は感覚が緩慢になってしまうのだろう。
しかし、問題の発覚から辞職に至るこの流れに危ういものを感じる。
たかが数百万の公費を私的に(?)使用したというだけで知事を辞任にまで追い込んだのは一体誰なのか?
元来、お金の使い方に私的と公的の違いを明確にするのは難しい。
舛添さんの場合はそれがあからさまで言い訳が「セコイ」から吊るし上げられたんだけど。
国会議員はどうなのだろう?
本当に私費と公費を明確にしている?
詳細を調べればグレーゾーンって結構あるはずだよ。
会社勤めの人だってそうだよね、会社のボールペン1本持って帰ったりしてない?
営業マンだからって交通費をちょっと”調整”してない?
みんな「これくらいいいだろ?」ってな感じでやってるよ。
それの大きなやつでしょ?言ってみりゃ。
それが「大事」になってしまう。
「社会的制裁を与える」という「正論な世論」によって行われている。
「悪いことをやってるやつを懲らしめてやるんだ!」
という「正義」を振りかざして「世の悪」を吊るし上げる。
では「世の悪」とはなんぞや?
先述したように「誰でもやるような小悪」は本当に悪なのか?
本当はもっと「悪い奴」や「悪いこと」ってあるんだけどそれには突っ込まない。
昔ならゴシップ誌しか相手にしなかった「小さな話題」をマスメディアに乗せて「世の悪はこれだ!」と騒ぎ立てる。
要するに扱うネタが「小ネタ」なのだ。
それをさも鬼の首を取ったように「スクープ化」する
この手法に味をしめたのが「週刊文春」である。
雑誌不況で週刊誌が売れなくなったが故に生み出された手法。
「ゴシップネタを垂れ流して”釣れた”ネタを拡大する」
それによって販売部数を上げるというセコイ戦術。
それにまんまと乗せられる「巨大(マス)メディア」
雑誌の販売部数が伸びて、マスメディアの視聴率が上がれば結果的に「広告の取り扱いが増える」
一連の流れで「おいしい思い」をするのは「広告の取り扱いをする業者」であることは間違いない。
そして、この流れで一部の人たちが「小ネタ」の的となる。
男女の痴話喧嘩をマスメディアが「大事件」として毎日垂れ流す。
それを民衆が「あっちが悪い、こっちが悪い」と評論する。
どうでもいいだろう!そんなこと。
家族で大切にしてきた「内緒」をスクープして「これは大変な病気ですよ」と騒ぎ立てる。
小さな子どもに与える衝撃など気にもせずに。
他人の病気を「予測」して何が楽しいんだか、子どものショックはいかばかりか。
芸能人だから、有名人だからその人たちの秘密までも「伝える義務がある、表現の自由だ」と主張する。
そんな彼らも所詮「広告取り扱い業者」に踊らされている一部でしかないのだが。
政治も経済も小粒になった日本では「大ネタ」が出にくい。
だからこそしょうもない小ネタを見つけるか「創造」するしかない。
ネタにされた方はたまったものではない。
それまでの生活が壊され、世間からも「色眼鏡」で見られる。
ネタは小ネタなので半年もすればマスコミは取り上げなくなる。
それでも、一度ついた印象は簡単には変えられない。
こうしてマスコミに「晒(さら)された人」は増えていく。
そして「日本人」という国民の愚かさが露呈する。
マスコミという権力に簡単にすがってしまう、信じてしまう。
素直な国民性なのだ。
テレビや新聞というマスメディアの言うことは簡単に信じる。
そしてその論調に乗っかる。
マスコミが「悪い」といえば「悪い」ことと認識する。
疑いもしない。
しかし、そろそろ気づきべきなのだ。
その姿を見て笑っている「裏方」がいることを。
面白い映画やドラマの裏側には優秀な「演出家」がいる。
日本の世論を作っている「演出家」がいると考えても不思議ではない。
そいつは「やっぱり日本人はバカだな」と大金を手にニヤけている。
そんなことを想像するのはいかがだろうか?
本当に愚かなのは「晒(さら)される方」か?「踊らされている方」か?
それも「演出家」次第かもしれない。