1993年9月17日最初の会社の設立日、起業して25年。
先週、オフィスリニューアルのために倉庫の整理をしていたら1993年のダイアリーが出てきた。
スケジュールは営業の訪問予定と独立準備の諸々。
「メモ欄」には顧客情報と、新たな仕事についてのアイデアやら事業計画的なものが。
昔の書類を整理するとその頃の企画書や事業計画書も出てきた。
「社員の意識調査(サーベイ)システムの開発」や「CD-ROMを使用したマルチメディア教材の開発」など。
当時の規模ではできるわけのない事業計画や企画がわんさか。
「我ながら、よくもこれだけ考えられたなぁ」
まぁ暇だったんだろうね、年がら年中、企画と言えない「空想」を描いていた気がする。
それにしても、それらが何一つ形になっていないのが面白い。
なんだかんだ言っても、自分からビジネスを仕掛けるなんて起業したての28歳の「若造」にできるわけもない。
今は「ベンチャー支援」だの「エンジェル制度」だのと、無謀な若造を支援する仕組みがあるが当時はまるでない。
20代で、それもバブル崩壊後のメチャメチャな経済状況の中で起業するなんて、周りから見れば正気の沙汰ではなかった。
周囲からお声がけしていただいた「お仕事」を一つ一つ仕上げていくのが日々の食い扶持。
「お茶の販売」「社員教育ビデオの販売」「PRビデオの制作」「パンフレットの制作」などなど、手のかかる仕事ばかりだった。
来るもの拒まず、去る者追わず、いただける仕事に「できません!」は絶対に言わなかった。
そんな中で、雑誌の創刊プロジェクトにお声がけをいただき、学びの市場での仕事を始める。
それから3年ほどは雑誌の仕事を中心にしていた。
古いビジネスモデルの矛盾、新しいメディアの誕生。
1998年、インターネットがメディア機能を持つ事を予見した
旧来のビジネスモデルを補完する役割として「新たなビジネスモデル」を創造する。
それが形になるまでに3年以上かかった。
新たなビジネスモデルはすぐに真似される、競合が出てきて価格競争を仕掛けられる。
値下げはしなかった。自分たちのやり方にこだわり続けた。
結果的に競合は市場から撤退、旧来のビジネスモデルと入れ替わるように我々のモデルが受け入れられた。
いまでは業界No.1のポジション、10年以上かかって本当の意味でのビジネスモデルとなった。
その間、日本や世界の経済の動き目まぐるしく変化していった。
バブル崩壊の不景気、ITバブル到来、バブル崩壊ITベンチャー業界再編、リーマンショックで有効求人倍率どん底、転職市場が完全に崩壊。
そして平成後半に来た「戦後最長の緩い好景気」
有効求人倍率は天井知らず、失業率も最低水準、就職転職市場は花盛り、売り手市場は業界を選ばない。
国を挙げてベンチャー支援、金融機関は借り手不在で何でもありの融資合戦、大手企業では人材余り。
経営者のモラルにも疑問が出てきた、売上至上主義が勃興、短期の利益を得るための押売り営業。
ビジネスモデルは上場の道具か?はたまた大手企業の傘下入りのための道具か?
PRが上手ければ赤字企業でも上場する、ベンチャー企業は「金余り経済」の中ではマネーゲームの格好のネタになる。
25年前に起業した自分にとって「新しいビジネス」を産み出す事はとても魅力あることに感じていた。
ずっと「ビジネスモデル」を探っていた、しかし実現されなかった。
社会にとって必要とされるものであれば、それは認められ普及しビジネスモデルとして認知されるであろう。
昨今の「ビジネスモデルありき」の考え方はどうしても自分には合わない。
経営者の仕事とは、突飛なビジネスモデルを探すことや上場して自己顕示欲を満たすことではない。
ましてや、社員やお客さんを利用していたずらに売上拡大や規模の拡大を狙うことでもない。
関わる人々や市場に関心を持って、その幸せに寄与するべきではないだろうか?
企業は、社会の必要度合いに比例して売上も規模も増加していく。
必要ないのであれば退場を余儀なくされる。
その舵取りを任されているのが経営者なのだ、企業の存亡を決めている。
倉庫の整理をしていてもう一つ見つけたものがあった。
尊敬する人からのハガキだった。
見慣れた書体で「お互い厳しい時期こそ頑張ってやっていこう!必ず道はある」と書かれていた。
苦しい時期にもらった言葉だからこそ、大切に取っておいたのだろう。
あの人に恥じない仕事ができているのか?自問自答しながらここまで来れた。
危機を乗り越え、社会に必要とされる存在であり続けなければならない。
26年目を迎えて改めて自分の仕事を考えさせられた。