仕事でわからない事があると、「ググれば良いじゃん」なんて言葉が普通に出て来るくらい、わからないことはネットで調べるのが習慣化している。
世界中のあらゆる情報はネット上にあり、すべて無料で知る事ができる。
エクセルの操作でわからなければググる、無料。
英訳も仏訳もググれば翻訳、すべて無料。
最近では、個人的な質問もネット上で「誰か」が答えてくれる、無料でね。
ほとんどの情報や知識は無料でネットで手に入る。今や世の中はそれが常識。
大学受験カンニング事件は、起こるべくして起きたのかもしれない。
ネットが関連していると言われる大きな事態としては中東情勢。
ソーシャルネットワークが世論を作り、それによってクーデターが起こった、まさにネットが世界を変えたような話になっている。
自分が思うには、ネットが世界を変えたのではなく、
グローバル化された情報が、人々に気づきを与え、それぞれの思考に大きな影響を与えた。
その結果、思いが共有されて共感が生まれ、多くの人が動いた、クーデターはその結果である。
ネットの情報伝達のスピードと国境を越えた広がりがそれを可能にしたと思う。
情報伝達に感情は必要ない、感情がないから誰でも同調できる。世界的に広がる。
これがインターネットが情報伝達手段として優れている、最大の特徴と言える。
一方で、コミュニケーション手段として、インターネットはどうなんだろう?
コミュニケーションとは、言葉を伝えることである。
言葉には感情がある。
言葉には伝え方によって重さの違いがある。
メール、会話、手紙、どれで伝える言葉が一番重いであろうか?
例えば、手紙にしたためられた言葉。
遠い昔のことなのに未だに思いが蘇るのは、なぜだろうか?
短い時間でも、会話を重ねることで感銘を受ける人がいる。
その人の言葉が今でも心の奥に残っているのは、なぜだろうか?
メールで伝えられる言葉。
パソコンや携帯のボタンで押された言葉は、電波というバイアスを経由することで、加工されてしまったように感情が伝わらない。
手紙=文字間から伝わる思い。
会話=五感で感じる言葉以上の情報。
メール=スピード感と無感情の活字。
だから、コミュニケーションサイト(Facebook、ツィーター)は、言葉以上の情報を伝える仕掛けをつくる事でコミュニケーション濃度を上げようとしている。
となると、コミュニケーション手段として、ネットは不完全であると言えるのではないか?
そうなんだと思う。
顔を突き合わせて会話することで可能なコミュニケーションがある。
お互いの顔を見ながら話をすると、言葉以上のコミュニケーションが生まれる。
相手がどう感じているのか?目で会話することもある。
結果、言葉を発する以上のコミュニケーションができる。
どんなにネット環境が発達し、誰でもどこでもネットに繋がる環境になろうとも(ユビキタス状態ね!)会話はなくならない。
正確な情報を早く伝える為にネットを、思いを伝えるには会話を、後々にまで残る思いを伝えるのであれば手紙を。
そう割り切って考えれば、コミュニケーション手段で悩む事は減るかもしれない。
少なくても、「メールで送ったからいいでしょ!」というコミュニケーションは無くなっていくのではないだろうか?