誰でも年を重ねて成人式を迎え、大学を卒業し社会人になると、大人になったような気になるが、実際には「大人子供」が多い。
大人になりきれない子供のことだが、まぁ自分も若い頃にはそんな時期があったのだろう。
しかし、最近の「大人子供」は結構厄介なのもいるから困る。
見た目が大人で言う事も大人っぽい、しかし思考はいたって子供なのだ。
大人とは、自らを俯瞰して評価する事ができる。
他人からどう評価されるか、よりも自己評価で自身の行動を考える。
大人は物事の根本を理解しようとするし、多少なりとも社会の仕組みを理解している。
それに反して、子供は他人からの評価ばかりを気にする。
良し悪しの判断ができないし、物事の根本を理解しようともしない。
子供だから自ら判断が出来ずに、他者にすべての判断を委ねる。
こういう「大人子供」に限って周りは自分を評価してくれないだの、上司はちゃんと見てくれないなどと言う。
こういう輩はどこにでもいるであろうし、過去にもいた事は事実。
しかし、子供もいつかは大人になるが、いったいいつ大人になるのであろうか?と成長の意欲を感じる事のできない人達を見ると心苦しい。
先日、この人は大人だなぁと思う人と話をした。
その人はフリーで仕事をしている人で、たまにしか会わないが会う時にはいつも明るくて笑顔が素敵だと思わせる人だ。
その人が最近体調を崩して入院しているという話を聞いていたので心配して連絡をしてみた。
すでに退院して自宅で療養しているということなので、じゃぁ頃合い見て会いましょう、ということになり久しぶりの再開に。
会うまでは「ゲッソリやつれてたらどうしようかな」などと危惧はしていたが、遅れて到着したその人はいつも通り元気そう。
そしていつもの笑顔をしてくれていた。
なあんだ、心配して損したかな、などと思いながら入院から現在に至る話を聞いて見ると、想像を絶する苦労話があった。
自分であれば、決して笑顔でいられない、いやとてもじゃないけど外に出る気になんてなれないような話だった。
現在も仕事に復帰する事が出来ずに、療養生活を送る日々ではあるが、話し相手の自分に気を使ってか、終始笑顔で話しをしていた。
そして、一緒に仕事をしていた人達の近況を気にしながら、入院中に世話になった人の事を話していた。
その人は、自らの置かれている状況の中で精一杯の仕事をしようと努力をしていた。
決して腐る事なく、弱気になる事なく、前向きに考えていた。自分の体が思い通りにならないにも関わらず、次の事を考えていた。
いつもの笑顔の奥にチョッピリ哀しみが感じられた。
その姿はすごく大人な感じがした。
現状を受け入れつつ、自分が何をしなければならないのか、誰に支えられているのかをしっかりと理解しているし、周りに感謝している。それが大人の思考であろう。
一方で、何でもできる環境にありながら、いつも泣き言を言ったりネガティブな発言を繰り返す輩がいる。
そういう態度や発言は周囲の関心を得たいが為のものであり、至極子供っぽい行動なのだが、本人はそう見られていることを認識しているのであろうか?
人は誰しも完璧なる環境で、好きな仕事ができるわけではない。
与えられた環境の中で、至らぬ力を努力によって積み上げて一人前になるのである。
与えられた仕事も満足にできないのに一人前になったような気になって、この仕事は向いてないなどと簡単に言うのは大人ではない。
いつまでも子供のままでいて欲しいなどと思っているのは、過保護に育てた「大人子供」の親だけだと思うがどうだろうか?
自らと本気で向かい合うことのできない人間は、場面や環境を変えても子供のままだと思う。
現状に不満を言うよりも自分を成長させて、本当の意味で社会に喜ばれる存在になって欲しい。
と、こんな事を書くと翌日「これって私の事ですか?」と聞いてこられる方がいる。
断っておくが、誰か一個人を想定してこのブログを書く事はない。
もしも、個人に言いたい事があるのであれば、自分は本人に直接話をする。
なぜなら、それが「大人の流儀」(by 伊集院静)だからだ。