今、いわき駅発上野駅行きの特急のシート。車上の人である。
今回のいわき行きは、一昨日の金曜日に決まった。
毎年、旧盆のこの時期は両親の実家があるいわきに行くようにしている。
子どもの頃は、従兄弟達と遊ぶ目的で親に付いて行ったが、最近では両親のお抱え運転手という、年に一度の親孝行もどきをするために行っている。
行ってすることは、叔父、叔母の家を回り線香をあげるのだ。お盆と言えばそういう事をするのが日本の習わしであろう。
昔は、義理の濃度(?)もさほど濃くは感じなかったが、最近は昔世話になった叔父、叔母の遺影に挨拶するのである。
自分が行く意味を一層感じる。
とはいえ、今年は状況が違う。3月11日からいわきの位置づけが変わった。
今や世界的に有名になった「FUKUSHIMA」のいわきである。
被災地である。
行って、お見舞いしたい気持ちもある。しかし、行って迷惑になるのではないかとの危惧もあり、今年はどうしたものかと迷っていた。
そんな時に母親からの「今年は貴方はどうするの?」というメールである、断る理由もない。
叔父や叔母のそれぞれの思いや状況を聞いてみたい。
朝、九時過ぎに実家に到着、運転手としての一日が始まる。
首都高から常磐高速道路へ。
中々の渋滞である。
しかし、柏を過ぎた辺りから車の量が急に減り始める。
水戸を越えると、地元ナンバーばかりが目立ち始め、本線はガラガラ状態だが、何故か出口だけは大渋滞である。
理由は、勿来インターで降りる時にわかる。
料金所に近づくと、地元ナンバーの車は、ETCレーンではなく一般レーンへ。
不思議に思い観察していると、運転手が何かのファイルを料金所の係員に渡している。
係員が何かを操作すると、その車の通行料が大幅割引。
なるほど、これが被災地割引かと理解する。
勿来の叔父に挨拶。被害状況の話を聞くと、勿来のあたりは三月の震災よりも四月の余震の方が建物の被害が大きかったらしく、屋根瓦を補修している家が多い。
その後、平の叔母に挨拶。そこで十年ぶりに従兄弟と再会する。頭髪の変化に言葉を失うが、元気そうでよかった。
午後4時も過ぎた頃、四倉の叔父宅へ。
いわきの農家の実情を聞かされる。
実は今日、いわき市内を車で走り驚いた事がある。それは震災前とあまり変化がないことだ。
街並も屋根の未補修が気になるくらいで、ほぼ補修が済んでいる。
特に驚いたのは、田んぼがきれいな事だ。
稲がいつもと同じく青々と茂っている。
そこで、四倉の叔父に何故こんなに田んぼがきれいなのかを聞くと以外な答えが返ってきた。
農家の皆さんは、今年出荷できるかどうかわからない稲を育てるらしい。
今年の米は、出荷までに何度も放射線量の検査を受けて、問題無ければ出荷、もしも問題有れば廃棄らしい。
廃棄と言っても、簡単ではない。何処にどのように廃棄するのか、何も決まっていないそうである。更に廃棄の際の保証についても一切話しがないらしい。
なぜそんなリスクのある稲作りをするのか聞くと、二年間作付しないと田んぼがダメになるらしく、今年作らないわけにはいかないらしい。
その後、叔母の家にも寄ったが、同じような話をしていた。いつも明るい叔父、叔母がとても暗い表情をしていた。
いわきの農家では、震災は終わってない。国の対応も後手だが、自治体の対応が遅すぎる。
農業を営む人々は皆叔父や叔母のような不安感を持ちながら、それでも米を作っているのである。
福島県は、県の主要産業である農業への支援と対策を、もっと早く明確に打ち出す必要があると思う。
最後に、津波被害のあった地区近くに住む叔父に案内されて、津波で被災された地域を訪れてみた。
思わす絶句する光景を目にした。
市内では見る事ができなかった、この地区が本当に被災したという現実。
そこには、記録写真でしか見たことのない、空襲で焼き尽くされたような荒廃した街の風景。
かつてそこには沢山の人が普通の生活をしていたのであろう。
それらを一瞬にして廃墟にしてしまった津波という災害。
それを前になす術がなかった現実がそこには広がっていた。
今回いわきで感じた事は、震災の傷はまだまだ癒えていないという事。
むしろこれから訪れるであろう風評被害や経済被害を恐れている状況である。
同じいわき市でも、地域や業種によっても被害の状況は違うし、不安の種類も違うかもしれない。
本当に今何が必要なのか、今一度、現場に目を向ける必要がある。
被災した悲しみを共感することも大切だが、これからの危機感を共有することは、もっと大切な事だと思う。
間もなく、電車は上野に到着する。
明日は盆の最終日である。東京では普通の一日が始まるのであろう。
いわきでは、盆の送り火が焚かれる。
今年初めて焚かれる火は、一体いくつあるのだろうか?被災地に灯った初盆の灯籠が忘れられない。
謹んで犠牲になった方々のご冥福をお祈りする。