「うちはうち、よそはよそ!なんでも他人のモノを欲しがらない!」
「○○君が持ってった△が欲しい!」だの「○○君が□買ってもらったから買って!」などというオネダリをしたときに、そんな言葉で親から叱られた。
時は高度成長期の日本。ついつい隣の芝生を見て羨んでしまうのが常であったろうに、今考えれば随分と崇高な教えを説いてくれたものだ。
他者の幸を羨まず、己の信じる道を行き幸を得るという考えは、本来人間のあるべき姿のような気がする。
しかし現実はそうでもないようで。
高度成長期の日本人はまさに、隣がテレビを買えばうちでも、冷蔵庫を買えばうちでも、洗濯機も・・・。
「隣の○○が持ってるから・・・」というマーケティングでモノが売れてた。
一通り皆が手にするようになると、今度は「隣の○○よりも、もっと性能が良い・・・」というマーケティングになり、お隣さんマーケティングで潤う時代が長く続いた。
国民だけじゃない、国も欧米と比較してGDPがどう、株価や為替や貿易収支に至るまでとにかくもっと頑張って追いつかなきゃいけないと国民を鼓舞してきた。
国全体が、ある意味強迫観念に迫られて欧米に肩を並べることを意識して突っ走ってきた。
その結果、本来日本人が大切にしてきたものを捨ててきた感がある。
日本人が大切にしてきたもの、それは言葉や生活習慣、文化、それらの土台となる価値観だろう。
日本語という言葉が持つ独特の意味や空気感、四季折々の様々な民俗行事、桜を見て美しいと思う心など美の価値観、それらは大切な日本の財産だ。
そして、日本人同士のコミュニティには独特の価値観が存在した。
親と子、兄と弟、先輩と後輩、上司と部下など。
相手を敬い、慈しみ、時には自己犠牲をいとわず相手を守り、尽くす関係があった。
そこには人間関係における「常識」が存在し、暗黙の了解のもとに上下関係を含めた良好な関係作りの掟があった。
それらの価値観が徐々に軽く扱われるようになり、存在感が薄くなっている。
その代わりに、欧米的価値観=個人第一主義が入り込み、日本の社会に様々な歪を産んでいる。
個人第一主義的には、他者との関係を構築する掟がない。
あるのは他者との比較による関係。自分より上か下か、同じくらいか。
隣の誰かよりも成績が良いか、持ってるモノが良いか、良い学校に入ったか、良い会社に入ったか。
そういった他者との比較で自分の価値を測る人が多い。
本来、そんな比較は意味のないもの。己の価値は他者との比較で得られるものではないだろう。
ひとりの人間として、大いに自分を誇るべきである。
日本という国も、外国と比べて何かを比較するのではなく、日本人として幸せに生きていく為にはどうするべきか、を真剣に考える時期が来ていると思う。
欧米、特にアメリカの価値観をそのまま鵜呑みにするような国のあり方には大いに疑問を感じる。
どこの国と比べて良い、悪いと言っても所詮仕方のないこと。
世界経済も混沌とする今の時代だからこそ、日本を見直す良い機会だと思うのだが。
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