何か新しいことをやろうとすると、「それは簡単にはできないよ」「もっとしっかり考えた方がいいんじゃないの」と批評する人がいる。
特に、自分ができなかった事や自分の価値観に無い新たな取組みをしようとする人を見かけるとそんな事を言い出す輩がいる。
最近の国会中継を見ていると面白い。
民主党の幹部が「自分たちがやろうとしていたことだ」「株価だけ上がれば良いと思ってるのか」と言えば安倍首相は「言うだけなら誰でも出来る、政治は結果だ」と言い返す。
実績が上げられなかった民主党はぐうの音も出ない。
政府の金融政策が功を奏し、一時的に景気が良くなった空気感が出てきている。
実際の経済にはまだ大きな動きはなく、日本経済の復活はまだ遠いようだが。
それでも円安誘導政策とそれによる株高の効果は政府の新たな取組みに対して、誰も批判することが出来なくなっているのも現実。
つくづく結果とは大事なものだと思うが。
とはいえ、昨今の混迷状態では、成功している施策がいつまでも続くとは限らない。
“すぐに効果のある新たな施策”など誰にも予測できない。
だからこそ新たな挑戦的施策が必要なのだ。
余談だが、
挑戦的施策の案とは、多少稚拙でも思いつきレベルでも良い。
前提を覆して新たな施策を検討するときには、むしろ稚拙である方が発想も広がりやすい。
完全にプランされた施策は他者が入り込む余地がない。
だから、思いつきレベルの稚拙な企画を皆で形にする事が挑戦的施策の醍醐味と感じて欲しい。
本筋に戻るが。
挑戦的施策というものはとかく邪見に扱われる事が多い。
保守的な施策は容易に同意を得られるが、革新的(新たな)施策は用意周到に説明しなければならない。
過去、サラリーマン時代にもあった。
お客さんと立案した新たな試みを実行しようとする際に、社内から相当の反対にあった。
お客さんと合意しているんだから反対する理由もなかろうに、前例がないだの企画が稚拙(悪かったな!)だのという理由で反対された。
社内の反対勢力を鎮めるために必要と感じない企画書を作成し、必要とは感じない社内的説明を行った。
あの革新的と言われる会社でもそうだったのだから、他の会社ではなおさら革新的企画というものは簡単には通らないのだろう。
その時にも感じたのだが、革新的取組みに茶々を入れる輩は、本当に単に口を出すだけだ。
口を出して手を出してくれるのであれば、施策が前にすすむのだから良い。
「それは無理だ」「内容が稚拙だ」と言ってるだけでは、何も前に進まない。
稚拙だと思うなら、補う案を出してやれば良い。
無理だと思うなら無理じゃなくなるように協力してやれば良い。
それが組織であり、今の時代の会社のあり方ではなかろうか。
今は人気絶頂の“アベノミクス”もいずれ行き詰まるのかもしれない。
そのときに「あの政策自体がだめだったんだ」なんて評論家が増えるであろう。
そういう輩に限って「じゃあどうすれば良いんだ!」という問いに答えることができない。
本来はそんな時にこそ、意見を出し合い、知恵を出し合い、皆で危機を乗り越える努力をしなければいけないはずだ。
口だけ出して何も協力しないのは、評論家である。
評論家はマスコミでは重宝するが、実業の組織では無用な存在だ。
評論家が革新的な発想を殺そうとすることはなんとしても止めなければならない。
混迷の時代には「これをやっていれば安心」はないのであるから。