親の仕事については子どもの頃から何となく理解していた。
小学生高学年の頃、夏休みでやる事がないと父親と一緒に“会社”に行った。
正直言えば、然程行きたかったわけではなかった。
自分が父親と一緒に仕事に出かける姿を見る母親がうれしそうだった。
気のせいかも知れないが、それが理由の一つかもしれない。
父親の仕事は「紙器印刷」
箱や包装紙などパッケージへの印刷をする会社を経営していた。
自分が生まれる前から営んでいたのだから長く続いていたのだろう。
足立区栗原にプレハブ作りの小さな工場があって毎日自宅から白いハイエースに乗って通っていた。
自分が工場に行くと職人さんが「お、若社長が登場かぁ」などとからかってきた。
午前中はほとんど暇なので、大きな印刷機が回転して段ボール紙に色を付ける作業を眺めていた。
単色の印刷機は一色で刷られた紙が二回目に流れる時には二色に重なる。
それを4回繰り返すとカラー印刷が完成した。
今はそんな面倒な機械を使っている工場はないだろうが、当時はそんな感じだった。
小さな工場の中は油の匂いとインクの匂い、そして段ボール紙の匂いが重なり決して快適な空間ではなかった。
夏の工場内は暑い。クーラーも扇風機もあるが機械が回っていれば熱を発する。
自分にはその空間が嫌だと思った事はなく、それらの匂いすらも不快ではなかった。
“ガタン、ガタン”ひっきりなしになる印刷機の音の中で父親と職人さんが大声で打ち合わせをしている。
色をもっと濃くだの薄くだの自分にはさっぱりわからないが大人が仕事をする真剣な顔というものを見た。
父親の昼食は近くの仕出し弁当を頼んで工場内で食べていた。
自分が行く時には追加で弁当を頼むか、それが間に合わなければ出前をとってくれた。
この出前というのが、まず間違いなく「天丼」なのである。
未だにそうなのだが、父親は自分が無類の「天丼」好きと思っているらしくそれさえ頼んでおけば間違いないと思っている節がある。
午後になると配達に出る。
印刷して数日乾燥させた箱を包装してハイエースに積込みお客さんに納める。
お客さんは足立区内や埼玉方面にも多かったが九段方面にもあった。
靖国神社も大切なお客さんでお菓子の箱を納めていた。
そして老舗和菓子店「宝来屋」さん。
創業明治元年創業で代々家族経営をされている。
父親の事は昔から知っているようで、自分が手伝いで行くと「あら、長男の方よね、みのる君だっけ」などと女将さんが愛想をくれた。
「ちょっと待ってね」と言いながらお菓子やジュースをお土産にいただいた事もあった。
そんな時の父親の顔は少し嬉しそうで照れくさそうだった。
身内に対して異常なほど無口な父親もそんな時には愛想笑いの一つもするのかと感心した。
ある時、荷物を倉庫に運び込んでいると女将さんが声をかけてきた。
「ほら、お父さんはあんなにたくさん一度に運べるよ」
たしかに自分が包み2つをやっとこ運ぶところを父親は4つは運んでいる。
「いいかい、あなたのお父さんはこうやってお金稼いでいるんだよ。感謝しなさいよ」
そう言われて、首にかけたタオルで汗を拭きながら荷物を運んでいる父親の姿を改めて見た。
父親の仕事を意識したのはその時が初めてだったかもしれない。
自分は夏休みの暇な時の一瞬に気まぐれで手伝っているが、父親は毎日こうしてお客さんの所を回っている。
こうしてくれているから毎日普通に生活できているし、学校にも行けている。
確かに感謝すべき事なんだ。
自分は将来こんな父親になれるのだろうか?
そんな事をうっすらと考えたような気がする。
あれから30年以上の月日が流れた。
父親の栗原の工場は既にない。
それでも仕事は今でも続けている。
昨日、父親から連絡があった。
「宝来屋の女将さんが亡くなった」
その声はあの頃の無口な父親が発する言葉のように重く、そして切ないものだった。
自分と父親との歴史を知っている人がまた一人逝ってしまった。
大切な夏の思い出を残して。