人は悩むものだ。
若い頃は自分の生き方に悩む、歳を重ねると自分のことで悩むことが減ってくる。
他人とのこと。
うまくいかない、家族・友人・恋人との関係・・・。
「なぜあの人に思いが伝わらないのだろう?自分はこんなにも思っているのに」
「なぜあの人は理解してくれないのだろう?自分はこれだけの事をしてあげているのに」
「なぜあの人は自分に辛く当たるのだろう?自分は何も悪いことはしていないのに」
そして「あの人は私のことが嫌いなんだ!」となる。
伝わらない、理解してくれない、辛くあたるのは嫌いになったから。
思いが募っていくと、
「あの人には悪意がある、言葉に裏がある、騙そうとしている」
全てが疑心暗鬼。
しかし、これらの思いの裏には「私」がいることも忘れてはならない。
”自分”がこれだけ思っているのに、”自分”がこれだけしてあげているのに、”自分”は悪いことしてない(と思う)のに。
自分という一人称の視点。
相手は”自分”の感情に気づいていないのかもしれない。
「あの人は私のことが嫌い(なはず)」と勝手に決めつけてしまう。
これでは人間関係なんて築くことはできない。
疑心暗鬼は争いを生み、調和を乱す。
「それじゃあ、あなたは疑心暗鬼なんて言葉とは無縁か?」
そんなことはない、相手を疑うことも独りよがりになることもある。
ただし、自らで決めていることがある。
「信じるべき人は信じる」たとえ裏切られても。
他人を裏切るよりも裏切られる方がマシ、そんな生き方。
会社経営をやっていれば様々な話がやってくる。
怪しい話は一つや二つではない。
全てを相手にすることはない、しかし中には「これは良いかもしれない」と思うものがある。
そんな時「裏切られても仕方なし」と覚悟を決める。
結果的に上手くいかなかったこともある。
その時は仕方がない自分決めたのだから、誰かに裏切られたとしても自己責任。
最近は外からの「ヤバイ」話は「ニオイ」でわかるようになったので、まぁ騙されることはない。
それでも、時々「信じるべき人」から辛い仕打ちをもらうことはある。
そんな時には甘んじて受け入れるようにしている、感情の整理には時間はかかるけど。
「生まれながらにして悪人はいない」そう信じているからだ。