誰だって見えている“自分”と見えていない“自分”がある。
他人からどう見られているのか、自分ではわからない。
自分は“こういう奴”だと思っていても他人の目からは違って見えているかもしれない。
自分は一生懸命取り組んでいるつもりでも、周囲からは適当にやっているように見られていたり。
逆に、
結構ちゃらんぽらんにやっていても、周囲からは一生懸命やっているように見られてたり。
これって一体なぜ?
外見、話し方、仕草、または経歴。
それらが原因で見られ方が変わるようだ。いわば“偏見”である。
自分も社会人になりたての頃は、この偏見に腹立たしい思いをした。
顔は丸顔、話し方はちょっと軽め、生意気な態度、付属高校上がりのお坊ちゃん学校出身。
なめられる要素がたっぷりの新入社員だった。
同期の連中と同じように仕事をしていても「おまえはもっと真剣にやれ!」と言われなき因縁をつけられた。
それなら結果を出せば認められだろうと、一生懸命にやって目標達成をしても「今回はラッキーだったな!」などと隣の課のマネジャーに雑言を浴びせられる始末。
さすがに、この時ばかりはそのマネジャーに文句を言いに行った。
その剣幕があまりに酷かったのか、見かねたT主任が間に入り、その場をおさめてくれた。
その節はお世話になりましたTさん(今ではかいわれ農場の社長さん)。
そのような話に事欠く事がないくらいにいろいろとあったが、本当になめられてたな。偏見だけではないけど。
数年後に気づくのだが、周囲に“なめられている”ときは言葉で何を言ってもだめなんだ。
仕事は結果。
1回2回の目標達成では「ラッキー」と言われても仕方ない。
毎回達成すれば良い、それもトップクラスの成績で。
仕事の質にもこだわらなければならない。
今まで誰も取り組んで来なかったような仕事を仕掛けるとか。
結果を出し続けて、実績を上げる。
それで周囲から認められる。
実績を重ねると、「あの人はああ見えて出来る人だ!」と言われさらには「いや、周りを油断させるためにわざと軽く見せてるんだ!」と勝手に良い方に解釈されるようになる。
ある意味、偏見も味方にすれば良い。
「自分では一生懸命やってます」なんて言葉はビジネスの世界では通用しない。
周囲から一目置かれるくらい“良い仕事”をすること。
周囲から“出来る奴”と思われたいのであれば“実績”を上げられたし。
一方で、たいした実績を上げないのに「良くやってる」という評価をされる人がいる。
それもある意味“偏見”なんだろう。
そういう人は、後々苦労する。
たいした努力もせずに何となく評価されてきたから「世の中こんなもの」と高をくくる可能性がある。
しかし、評価は環境が変化すれば一変する可能性を持つ。
結局のところ、周囲からどう評価されるかというのは、さして大きな問題ではない。
要は「自分がどこまでやるか」なのだ。
実際には出来ていない事をできているように見せたり、努力をしていないのに努力をしているように周囲に見せても、自身の目で見ればそれが事実かどうかわかるはず。
偏見で見られようがどうしようが、結局最後の評価者は自分なのだ。
自分の事を“見ないフリ”はできない。
くれぐれも自分事を“他人事”にすることなかれ!